🌸Megのゆるっとクリスチャンライフ🌸

教会のメッセージやクリスチャングッズのレポートをお伝えするブログです♥️

たべるイースター物語

イースターおめでとうございます。

 

ことしもイースターがやって来ました。イースターをお迎えできたことを、ただカレンダーが巡っていったということ以上に、深く受け止めて感謝したいと思います。

 

みなさんにもいままでお迎えしてきたイースターの思い出が、さまざまにあることでしょう。

わたしは中学一年生のとき、上級生から手作りのカード付きのイースターエッグをもらって大喜びしました。中学三年生になると宗教委員長になってそのエッグづくりをみんなにお伝えしたりした思い出があります。なによりも高校一年生のイースターに洗礼を受けたときは、言い知れぬ平安と喜びがありました。

 

教会暦のカレンダーは、ずっと巡っているのですが、それは同じところをずっと堂々巡りしているのではない、というのが最近の実感であります。ぐるぐるとめぐりながら、だんだん天国の方へ、わたしたちを導きのぼるらせんのイメージです。

その天国には、わたしたちとイエス、わたしたちと見送った人々の再会が待っていると、わたしは信じています。一歩一歩、人生の旅路を教会暦のめぐりとともに、ほんの少しずつ天国へ歩みを進めていると信じます。

 

ご復活はそんな天国と地上がつながって、出会うようなパワフルなときだと思います。そして、ふたたび出会うということ、どんな絶望も終わりではないというメッセージを受け取る恵みのときです。

 

さて、今日の福音書では、イエス様を亡くして失意のどん底にあるふたりの人が、エマオへ向かい、イエスその人と出会う出来事が語られました。ルカはとても文学的に、ありありと描き出していると感じます。

 

わたしはこのエマオへの道での物語に、なにか、ふだん教会でおささげしている聖餐式、そして悲しみを体験した人が神様と出会う人生の旅が重なって感じられましたので、きょうはそのお話をしたいと思います。

 

ふたりは、近づいてきた見知らぬ人に、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われ、いらだちさえあらわにしながらも、自分たちの悲しみ、嘆きを吐き出します。見知らぬ人、いえ、イエス様は、このふたりの話をもちろん知っています。ご自分のことですから。しかし、「それ、わたしのことじゃーん!」なんてツッコミもせず、忍耐強く聴いてくださいます。人間がなにかを失うとき、ぐちゃぐちゃになった気持ちを整理するのには、十分に嘆く時間が必要です。何も失わなかったかのように見なかったことにするのでもなく、強がるのでもなく、自分の表現方法で十分に外に出してやることが必要だと思うのです。ふたりは、イエス様こそ自分たちを解放してくださる、なにかを与えてくださると信じてついてきました。それなのに、それなのに…と嘆きます。イエス様は、忍耐強くその時間をふたりに与えてくださいました。

 

聖餐式では、冒頭でキリエ・エレイソン、主よ、あわれみをお与えくださいと祈ります。主のあわれみが必要な自分たちを認めるとき、わたしたちは自分が何者なのかを知るようになります。

 

そしてこわれやすさのなかにある自分のいのちが、

こわれやすいからこそ宝物なのだと気づくのです。

 

そして、キリスト者の嘆きは、わたしたちを個々の人間であるだけではなく、悲しみ、苦しみを体験しているほかの人々、世界と結びつけます。キリスト者は、それをその人たちにかわって神様の前にさしだすのです。聖餐式の式文は、わたしたちは主の祭司であると語ります。

 

この嘆きは、嘆きに終わらないのです。暗い顔をして立ち止まることに終わらず、あたらしい歩みにつながっています。

 

疑い、悲観的な心、冷ややかな思いのさらに下に、愛し合うことや一致、深い交わりを求める望みがなお、あることに気が付きます。

 

主よ、憐れみをおあたえください …これはこころを突き破ってのぼってくる祈りです。

 

さて、ふたりの旅人はもはや下を向いて暗い顔で歩いてはいません。一生懸命、自分たちがどんなにかイエスさまに望みをかけていて、そしてイエス様の死をうけとめきれないでいるかを嘆いたあと、お話はこの見知らぬ人の番になります。

 

見知らぬ人-、いえ、イエス様そのお方にとって二人の話はよく知っているお話でした。なんせ、ご自分のことですから。それを「わたしのことじゃーん!」とツッコミも入れずに聴いてくださった後で、このひとたちにとって慣れ親しんだ聖書のお話をなさいました。ところが聖書はいつもの昔話ではなく、はじめて聴くように胸に迫ってきます。

聖書の中の神様の思いを生きたイエスさまがそこにいらっしゃってされるお話として聴こえてくるのです。ある聖書の訳では、「神様の思いが“こごって”人となった」と訳されています。煮物とかされる方だったら、にこごりのこごる、ですね。神様が人とどうにかして共にいたいという想いがこごって、かたまって、イエス様として今、目の前で話しておられる。

聖餐式では、聖書が読まれますが、聖書は本来、おなじみの古い話ではなく、いま、ここに立ち現れてくるものです。これを聞いてどう生活の中で得をしていこうかという講演会ではなく、聴いている最中になまものとしてわたしたちを変容させる力が、みことばにはあります。

そして、みことばはこの二人の硬くなった心をときほぐし、もしかしたらこの悲しみは、喜びが隠されているもっと大きな悲しみの一部なのかもしれないということが垣間見えてきます。そしてだんだんと、感謝のお食事へと導かれていくのです。

 

…こればかりは、わたしたちの人生の中で経験する悲しみについては、一生かかるか、一生かかってもいきつけないところなのかもしれません。一生かかっても、憤りや不平を捨てられないひともいますが、イエスが伝えてくれたメッセージと聖餐式というお式は、いっしょにご飯を食べよう、和解しよう、また会おうとわたしたちを招いておられます。

こうみると、わたしたちが教会でささげている聖餐式は、人生の旅路の要約のように感じられてきます。

クリスチャンは、イエスに招かれるということに慣れているのですが、じつは、エマオへの旅人ふたりは、イエスに頼み込んで泊まってもらいますね。心を燃え立たせてくれたその方を、わたしたちの生活、家での親しい交わりの中にお迎えします。

 

この復活の物語が描き出すこと、死ぬということが単なる終わりではなく始まりで、運命の残酷さというだけではなく、そのいのちがもっと大きく広がっていくということだった、これが神秘でなくてなんでしょうか。

 

見知らぬ人を家に招き入れるということは、わたしは信じますという信仰告白につながっていきます。

見知らぬ人が語った「栄光」ということばが二人の旅人のこころに残ります。栄光に入る前にキリストは苦しまねばならなかった。ふたりの思いと心は、死と破滅でいっぱいになってしまっていましたが、彼らのこころのなかに「栄光」という言葉がぽっとともしびのように灯り、あたためました。

家はからっぽの悲しみの場だったのが、いまは友となったこの人をお迎えして一緒に食事をする場になったのです。

エスに招かれているわたしたちですが、わたしたちもまた体の、心の、家の中に彼をお迎えします。この深い一致が、復活の出来事のお恵みでもあると思います。

わたしたちはこうしてイエス様と出会う旅人たちのこころの動きをみながら、祈り、黙想します。イエス様、わたしはあなたを信頼します。わたしのすべて、体も心も想いささげます。どのような秘密もあなたに隠しません。

見知らぬ人ではなく、友になっていただきたいのです。

わたしが心の深いところでひとりぼっちだと感じるとき、わたしのことをわかってほしいのです。

 

…招かれた人がこんどはパンを裂き、食卓に招く人になりました。わたしたちが自分の生活、明るい面も暗い面もある生活の中にイエス様を招き入れるとき、いつも、ごはんをたべなさい。と素朴な呼びかけを受け取ります。

エス様はもはや見知らぬ人として別の存在としているのではなく、わたしたちと「生きて」ともにいらっしゃいます。

ご受難の前の二階の広間でも、群衆の前でも、パンは裂かれ、分けられてきました。

聖餐式は、ごく日常的なことで、なおかつ神秘的です。

これはわたしたちにいのちがけで近づいてこられた神様のわざです。

わたしたち自身の目で見て、耳で聴き、さわり、食べることができるほど近づかれる神様のわざです。

ご復活の時、今や、わたしたちとイエス様の愛を引き離すものはなにもありません。

そんなふうに一緒にいたいと望んでくださっているお方を食べることによってはっきりと認識するのが聖餐です。

そして食べるひとの存在ととけあい響きあったように、イエスは別の存在としては見えなくなりました。

旅をしてパンを食べたふたりは、孤独になったかのようですが、旅を始めたときのような孤独ではありません。ご復活のキリストの霊は、彼らがパンを飲み食いすることで、彼らの中に入り、宣べ伝え、地の表をあらたにする働きへと連れていかれます。

わたしたちは人間の目で他人の中に神を見ることはできませんが、わたしたちの内に住まわれる神様がほかの人の中の神とひびきあいます。

エスはもはや、わたしたちのうちの新しい息として生きられます。

 

…みなさん、胸を張って世の中を生きていきましょう。そして祈りを必要とする人のために祈ります。もはや、わたしたちは歩くイエス様のいのちそのものです。

聖書全体をつらぬく神さまの約束を思い起こして、このお話を終わります。

「わたしは、世の終わりまで、あなたがたとともにいる」

 

イースター、おめでとうございます。