🌸Megのゆるっとクリスチャンライフ🌸

教会のメッセージやクリスチャングッズのレポートをお伝えするブログです♥️

祈りにおける成長を願って 修道院での修行、4日目

修道院4日目

 

朝が来ました。目覚ましアラームより先に起きます。

さすが修道院のベッドです。神学校に入る夢を見ていました。黒いキャソック(スータン)を着たわたしが入学式の集合写真に写っているところで目が覚めました。お部屋の十字架をみてイエス様、おはようございます。と言います。きのう、寝る前にふとんから首だけ出して寝ていると、イエス様がMeg、首だけ出して寝てる(笑)キュートだね(笑)とにこやかに見つめてくださるイメージが与えられました。なんかエロース的な、恋愛的なイメージではありますが、わたしはイエス様に愛されているんだということが、体験的、感覚的にしみこんできた感じがします。ことばでお祈りするのではなく、そこにただ一緒に座る、沈黙のうちに交わる祈りの体験が、この修道院での生活にはあります。

 

朝ごはんはいつものとおりパンにオリーブオイルをたっぷりかけ、レタスとハムのサラダにごまドレッシングをかけ、バナナを刻んで手作りヨーグルトに入れてコーヒーを飲みながらいただきました。

 

聖堂でロザリオを少しお祈りしてから、講話です。

アビラの聖テレサのお話がありました。神父さんのお話によるとその聖女様はかつて、ミサなどの共同体の祈り以外に個人的なお祈りをしていなかったそうです。その事実に気づいたとき、わたしはなんと愚かだったのだろうと愕然とします。

神よ、わたしのくちびるを開いてください と共同体で祈りますが、問題なのはアナタの心の中に歌がありますか?よろこびがありますか?恵みいただいているんだヨ。神様に向かってそれは必ず何らかの形になってあらわれるはず。アビラの聖テレサは、頭を使っている自分に気づきます。しかし、祈るとは考えることではなく、たくさん愛することであるといいます。神父さんはくりかえしました。アナタは?隣の人じゃない。アナタのアイデンティティは?
洗礼受けたんだよ。お恵みいただいたんだヨ。当たり前じゃないんだモン!

エスと一緒にいるこころのあたたかさがあれば、それは周りへの愛と祈りになって広がっていく。

エスに何かをことばで申し上げるということをこえて、一緒に座る感覚がすこし感じられてきたので、そのあたたかさの充満を願いました。

きょうの聖書はマルコ福音書の5章21節~43節。ヤイロの娘とイエスの服に触れる女

の箇所です。

聖書を、こういう意味だとか解釈しながら読むのではなく、自分もその物語の場に入っていきなさいと指導されます。すると、映画のようにイメージが見えてきました。

エス様がすぅ~~っと船で湖のほとりに到着されます。こぐオールのきしむ音も聞こえます。人々がうわ~っと集まって来て…わたしはヤイロの中からイエスを視界に認めたときのこころの動き、助けてほしいとたよる気持ちをあじわいます。イエスが、では、あなたの家にいきましょう、と応じてくれた時のはやく、はやく来て!という気持ちも感じます。

このお話にサンドイッチされている長血の女の必死にたよる気持ちにも入っていきます。また、そのたよる気持ちをキャッチされたイエスの気持ちも、少しずつ教えていただきます。

 

神父さんは、「みんなにも深い祈りした体験あるはずだヨ。それ思い出して」とおっしゃいます。記憶をたどっていくと、好きな人を亡くして、その人がすわっていたチャペルの席で床に涙を落としていた中学生のわたしが見えてきます。床板にしみこんでいく涙をみながら、胸がつぶれそうです。その時は洗礼を受けていなかったけれど、泣く場所にチャペルを選んだのは得策です。イエス様がその幼いわたしの横に座り、見守ってくれていたのだと、わかりました。

 

ミサでは、パウロの第二コリントの言葉が朗読されました。(Ⅱコリント12:7b~10)

パウロに与えられたとげってなんだったんだろうな。と思いめぐらします。もしかしたらひどいうつかもしれないという人もいます。パウロに主の言葉が臨みます。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。パウロはこたえます。「わたしは弱い時にこそ強い」。励まされます。自分で何かをして自分をつよくしていくのではなく、弱いままでいよう。そこにこそ神のみ助けがあり、さしのべられる手をつかんで歩き出すんだ、と。

共同祈願では、わたしのまわりにうつの人が多いのを思い起こして、

心がくらくなり、あえて良いものを願いえない人に、惜しみない恵みを与えてください。かれらがあなたをほめたたえるときを得ますように

と祈りました。

 

お昼ごはんは、ごま豆腐のピューレにつつまれたいんげん(フルーティでまるでオリーブのよう)、きゅうりのおつけもの(つけもの好きじゃなかったけどそれがくつがえるくらいうまみにあふれてた)、なんかなっぱ(笑)、皿うどんにメロン(豪華!)でした。皿うどん修道院に来ると百発百中で出るのですが、やっぱり長崎をリスペクトしているからなのでしょうか(笑)。

 

自室で横になりながら十字架をみます。亡くなった家族や恩人にしてあげられなかったさまざまなことを思い出します。こころに責めとなる出来事は、こんな短い生涯の中でもたくさんありました。でも、十字架のイエスを見つめると、それがみ手に受け止められて解放されていくのを感じます。わたしはきっと繰り返し、そんな体験を必要とするでしょう。