修道院5日目
(…屋台でぺろぺろキャンディーを売っています。修学旅行に来たようです。…わたしは「これ、買ったら天主堂に入れないでしょ?」と友達をたしなめますが、結局買いました。ぺろぺろキャンディーを齧っていると、)
コンコンコン!!シスターですけど!お具合でもわるいの?
時計を見ると9時です。うわっ!寝坊した‼
とっくのとうに朝ごはんは終わっています。
でもこの時間に起こしてくれてよかった…9時15分から神父さんの講話です。これを聞き逃すと今日の祈りの要点もわからないばかりか、ミサできょうわたしが担当する第一朗読の箇所もわかりません。
服を着て回廊を早歩きして急いで講話室へ行きます。ドキドキしています。
きょうの講話のテーマはずばり、反省です。
与えられた箇所にグサッとくるみことばがありました。
コリントの信徒への手紙二の4章、土の器に納めた宝 の部分です。
「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。」
最近京都の聖公会の先生にも「ミッション・じぶんじゃあきまへん」と言われたばかりです。
神父さんはいいます。自分自分ではなく、アイデンティティは何?洗礼受けているんだヨ。イエス様信じているんだヨ。人々に奉仕する、ね?よろこんで。イエスに支えられて。これ大きな恵みだヨ?どれほどわたしたち、あほです。でも車検ですよ、黙想は。なか開けてキレイにする。イエスにこたえるものになるんだモン!
シスターみんなお年寄り、ね?墓、ちかくなる、ね?(シスターたち笑う。)でも、内なる人、人生の中に新たにされる。
信仰は頭のうえの帽子のようなものじゃありません!アイデンティティなのです。なのにそれに基づいて生活していない‼
イエスも2歳3歳4歳って成長してきた。みんなも同じだヨ?育てられたから、大人になったんだモン。霊的な生活同じだよ。
病人を運んできてイエスのいるところの屋根をはがして穴をあけてつり下ろしたお話です。
イエスは群衆に囲まれていました。神父さんは、「イエス、人気だったんだモン!」といいます。イエスに対して何かを探し求めるようにして周りに集まったのでしょう。求めているものは様々だったかもしれません。人生の見直し、とらわれから自由になりたい現代の人々も、それならイエスの助けを受けなさい!と。
また、詩編103編にも聞きます。1,2節と8,9節を取り上げました。
2節には「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」と書いてあります。
自分の人生史の中にはいってこられる神のみ手を黙想します。
十字架のイエスと、顕示されたご聖体をみます。
いのちを終わらせようとしていたわたしだけれど、
イエスがわたしのいのちになってくれてわたしを生かしているんだ。
この体温も心臓の鼓動も流れている血ももはや、イエスのものなのだ。
十字架のイエスはすべてを与えつくした姿。
それをわたしがあまさずいただいているか?
説教で神父さんはいいました。あなたたち、ばかであっても霊的にけちにならないこと。感謝、惜しまずしてますか?
今日一食目になった昼ごはんは、しょうがの効いた鶏のから揚げに、大根ときゅうりと人参のおつけものに、たまねぎとパプリカのサラダ、ごはん、とうふとわかめのスープ、パインでした。
午後、告解があります。私服の上に紫のストールをかけた神父さんと一対一になります。なにか、恐ろしいような気持ちになりますが、頑張って話します。
わたしは家族に対してイエスのみ名を恥じて、宣教できていないことを主に告白しました。
神父さんは、「わたしがわたしであるままでいなさい。イエス様信じている。ネ?だれかとわたしが同じになれって言わない。わたしがだれかと同じにならなくていい。あなたがあなたのままで、イエスのように、イエスにだれでも近づけるようにWelcomeする者になるように努力しなさい。ローマの信徒への手紙7章の内在する罪の問題の箇所をゆっくり読むのが、つぐないです」
そして両手をかざして「父と子と聖霊のみ名によって、あなたのすべての罪をゆるします」と宣言してくださいます。
告解はカウンセリングでも、単なる打ち明け話でもなく、教会を通して与えられた神の権威によってその人の心のつかえになっていることをゆるしてくれるお式なのだと感じました。厳粛な気持ち、そして何か軽やかになり新たになった気持ちで、ご聖体の前で聖書を読み、ロザリオを祈りました。
ローマの信徒への手紙の7章のさいごには、「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのでしょうか。」「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と書いてあります。それまでの難解な感じから一挙にパっ!うわ!ってなります。
「なに」がわたしを救ってくれるか、とパウロはいわないで、人格を持った「だれ」と言うのです。宗教的な方法論でも心理学の知見でもなく、生きている神様との人格的な交わりこそが、救いをもたらすものである。と言っているようです。神父さんは、カトリック教会が第二バチカン公会議後とくに大切にしてきた諸宗教との対話のなかで、キリスト教とほかの宗教との違いとして知ったものとしてこの「人格的な交わり」をあげます。「方法論ではなく、パーソナルな出会いなんだモン。」
ロザリオに関しては、かねてから抱いていたイメージがあります。
一連の、主の祈り1回、アヴェ・マリアの祈り10回、栄唱1回の祈り。そしてファティマの祈り。
主の祈りはすべてのベースになる祈りにして完成形。
なので想像の中でテーブルの上にすてきな色の包み紙を敷きます。
そしてアヴェ・マリアの祈りは10本のうつくしいばらです。包み紙のうえにならべます。
その次は栄唱です。天使たちと共に賛美することばで、花束をリボンでむすびます。
そしてファティマの祈りで、花束にきらきらのビーズあるいはラメをちりばめて、すばらしい贈り物としてマリアに手渡すというイメージです。
すべすべの手のうつくしいマリア様がほほ笑んで受け取ってくれます。
お聖堂では本当にそのイメージの中に入っていくことができました。
聖書の文字を読んで意味を考えるだけ、祈りの言葉をみんなと合わせて発音するだけでは、生きた交わりとしての祈りはできないのだ、と痛感しています。
夕ごはんは冷やしうどんとすいかでした。
あしたはちゃんと起きなきゃな。