🌸Megのゆるっとクリスチャンライフ🌸

教会のメッセージやクリスチャングッズのレポートをお伝えするブログです♥️

修道院での修行、3日目 ~wounded healer Jesus~

修道院3日目

 

昨日のおやつの時間にインスタントコーヒーを入れる手がすべって特濃コーヒーを淹れてしまったので、きょうは眠りがこまぎれでした。主よあわれみたまえ。

朝ごはんはレタスにごまドレッシングをかけたの、パンにオリーブオイルをびしゃびしゃかけたもの、カフェラテ、紅茶、チーかま、りんごでした。

 

朝ごはんのあと講話があります。講話の最初に神父さんはこんなお祈りをしました。「主イエスへの信仰が、味のあるものになるように」

神父さんは本当の自分自身の信仰の中に入る、マルコ福音書の物語の中に自分も入る、ということを強調されます。今日の聖書箇所として、まずマルコ福音書の最初のイエスの洗礼の物語を読みました。そのあと、ペトロが信仰を言い表す8章27節から9章1節を読みました。

その中から抜粋:

 

「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」…弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」

 

マルコ福音書はイエスの幼少期やマリアからの誕生について何も語りません。きょうのテーマはイエスは自分にとって何者なのか、です。神父さんは言います。「イエスの名刺はなに?洗礼のときの「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」でしょう。これがイエスアイデンティティなんだヨ。

 

エスマリアさんに言った。「きょう夕ご飯早めにたべたい。話さなきゃいけないことがある…わたしは母であるあなたと一緒にいるためにこの世に遣わされたんじゃない。おん父のみ旨をあらわすために来たのだ。」そして洗礼を受けに行った、と神父さんは想像していました。

みんなの洗礼はどんなだった?みんなの人生の歴史は?

考えなければならないのはわたしのアイデンティティなんだよ?洗礼受けたんだよ?あなたの信仰が「わたしは主イエス・キリストを信じます」と告白するものでなければ、洗礼はないんだヨ。司祭職もないんだヨ!と神父さんは大きな声でいいます。

洗礼を、信仰を唯一の誇りとしてください。

十字架はみなさんの一歩、一歩です。痛い。イエス様も痛かった。たいへんだ。イエス様もたいへんだった。でもゲツセマニの祈りを思い出してください。逃げ出さないんです。

わたしの命はイエスご自身だ、と言えますか。

地球すべてが神のお住まい。なのに信仰体験は危機。自分の信仰を、個人的なイエスとのお話を、修道者でさえ仲間に話さないんだモン!!

 

「あなたはわたしを何者というのか」という問いの中に自分が入っていきます。マーガレット、あなたはわたしイエスを何者というのか。霊的な修行では、だれかが言ったことではなく、あなたは?あるいはあなたに神様はなんとおっしゃったの?ということを問われます。恥ずかしがって表明できない自分にも気づきます。でもきょうの聖書の続きで、「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」と言われてしまっています。Oh...

 

例によって瞑想の間に行って、座布をしいて坐ります。わたしの前にイエスが立たれ、わたしの告白を待っています。私は何分もだまっていて、そして申し上げました。あなたはわたしのなぐさめ主、いやし主です。わたしのすべてを背負ってくださる方です。わたしがあなたのみ傷にいやされることを知らないで、自分で自分を傷つけていたような時も、忍耐強く待っていてくださった方です。まだまだ今のわたしもイエス様がどこかよその人のように感じていますが、わたしを待っていてくださっています。

 

そして洗礼を思い出します。高校生だったわたし。洗礼盤に近づかせる司祭の手招きが見えてきました。水をかけられるときのようにかがみます。わたしはもう死ななくていいんだ。その安堵と決意がよみがえりました。わたしはあまり安心できないでそれまで生きてきたけれど、イエスの胸には飛び込んでいいのだ。そう思いました。

わたしの課題は、こころが狭く、出来事や他人への許容範囲が狭いことです。とも申し上げると、神父さんが霊的読書をしなさいと示されたエフェソの信徒への手紙4章2節に、「柔和で、寛容の心を持ちなさい」と書いてありました。神さま、わたしの力だけではむりです。助けてください。ロザリオを一連、いぐさの香りの中で、おささげしました。

神父さんはミサでも、ただ信仰を誇りなさいとおっしゃいます。むかしローマン・カラーをつけて電車に乗っていると、60代くらいの男性がよこに座って来て、「神父さんですか」と訊いたそうです。そうですよと答えると、「わたしは最近ルーテル教会で洗礼を受けました」と告げました。ただクリスチャンであることをアイデンティティとしなさい、という勧めでした。

 

また、きょうはイエスの傷にふれて信じたトマスの祝日です。

エスは「わたしを何者だというのか」とペトロに問われ、ペトロは「メシアです」と答えました。

トマスはイエスを目の前で見て「わたしの主、わたしの神よ」と告白します。イエスがだれであるのか、というテーマは黙想とミサで一貫しています。「見ないで信じる者はさいわい」…2000年たってクリスチャンになったあなたがたですよ!!自分が求めたんでも当たり前でもないんだヨ。お恵みなんだモン。霊の働きなんだモン。

ただイエスへの愛によって生きる。人に向かってburaburaburaではなく、生き方によって福音を告げる…。

 

わたしは、信仰を誇るとは、自分の信じるちからを誇るのではなく、イエス・キリストを主として戴いていることを誇ることなのだろう、と黙想しました。これから生きていくにあたり、ミサから派遣されます。ふと、通っていた公立の小学校の標語を思い出します。「なぜだろう これでよいのか さあやるぞ」。

なぜだろう、は糾明や求道、これでよいのかは識別、さあやるぞは派遣かしら?
なんて思いました。

 

ミサが終わり、お昼ごはんです。お昼は麻婆なす、ごはん、にんじんサラダ、ねぎのかきたま汁、すいかでした。すいかに塩をかけているシスター、最初何してるんだろうって思ったけど、そうすると甘くなるの思い出して、知恵だ~ってなりました。

 

神父さんと面接しました。「Oh,聖なるタナカ、ようこそ。24歳。マンマ・ミーア!わたしそれくらいの時何してたかな?」

洗礼がアイデンティティだね。と確認。わたしが洗礼を受けたのは高校生の時なので、それまでイエス様は待ってくれていたんだねってお話ししました。「わたしを何者だと言うのか」へのわたしの答えは、「イエス様はWonderful counselor です」。この言葉はヘンデルメサイアに出てくる歌詞で、イエス様はだれにもまさるいやし主、なぐさめ主であり、忍耐強く、わたしたちを待っていてくださる方。という信仰告白をこめました。

神父さんはかつて司牧の現場で出会った人の話をしてくれて、「あなた、神様が、生んだ。あなた、神のむすめ。オッケー?」とおっしゃいました。シンプルだけどものすごくパワーのある言葉です。わたしは神に愛された子どもなのだ。

聖書にも「あなたがたは神に愛されている子どもですから、神に倣うものとなりなさい」と書いてあるのを読んだばかりでしたが、生きて目の前にいる人から肉声で伝えられるとまたスッと入ってきます。

 

神父さんとの面接の後、聖体顕示があります。めちゃめちゃ光り輝く入れ物に聖別されたホスチアが入れられ、祭壇に置かれます。なにか厳粛で緊張感のある空気がただよいます。わたしは、きょうの講話の聖書箇所を読んで自分のためにつくったロザリオの意向をお祈りしました。

  • わたしが倦まず恥じずにイエス・キリストへの信仰を表明できますように。
  • 自分の一歩一歩を確かにし、イエスを見失いませんように。
  • 寛容になり、にがてな人も愛せる人になれますように。
  • わたしのうちに住まれ働かれる神を信頼することができますように。
  • わたしの口先ではなく生き方が、イエスをあかしするものでありますように。

 

聖体顕示では、イエス様がすぐそばにおられることを黙想しやすいですが、ミサや聖書の言葉でたびたびくりかえされる「主はあなたとともに」というフレーズは、イエスがそばにいるというだけではないんじゃないか、と思いました。英語でいうならありとあらゆる前置詞。そばにいる。中にいる。上にいる。うしろから守る。前を先導する。…

わたしの中にイエスがおられる。わたしはミサでイエスを食べるから。それならわたしが、歩く聖体顕示台になるんだ。口先ではなく生き方で、イエス様を伝えていくんだ。と決意しました。

 

夕食は、根菜のあえもの、みつばともずくのすまし汁、魚、ごはん、きのことコーンのソテーに、パインでした。