🌸Megのゆるっとクリスチャンライフ🌸

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どうしてあなたはここにいるの。 修道院での修行、6日目

修道院6日目

 

きょうは夢を見ませんでした。寝坊もしなくてよかった。睡眠を研究している科学者によると、夢を見なかったというのは誤りで、夢を覚えていないだけらしいですね…?

朝ごはんはレタス、ゆでたまご(黄身がオレンジ色でほくほくで、硬すぎなくてとても好みのゆで具合)、パンにオリーブオイル、手作りヨーグルト、バナナでした。

シスターとお当番でお皿洗いをします。沈黙なので、本当に必要な時以外は話しません。そのため、意思疎通がとりづらくてドキドキしてしまいます。身ぶりで「これ、仕舞いますね」などと合図します。

朝ごはんのあとは講話です。

繰り返し、エフェソの信徒への手紙4章を読んでいきます。

 

「いくら神学的にすばらしい書物があっても、それは時代によって変わる。聖書は、変わらない」と神父さんはおっしゃいます。

パウロはいろんな手紙の中で、キリストの体(キリスト者の共同体)はひとつである、と繰り返しますね。洗礼を受けた人たちはみな、ひとつの体である。

パウロは、キリストに結ばれて囚人となっている、とこの手紙を書き送りますが、イエスの愛にとらえられたからこそ、刑務所はいっているんだよ!と神父さんはいいます。そしてパウロの勧めがあります。あなたがたは唯一の神、天におられる神に招かれたのだ!

 

「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」

わたしがいただいたお恵みは、このわたしに注がれているんだよ。隣の人でもなく、家族でもなく、このわたしに。これに基づいて歩みなさい。これ、わたしのアイデンティティ

賜物がなにかは、愛のはかりに従って主イエスがお決めになる。それが霊的な識別だよ?

心の中にイエス様が生き方の望みを与えます。それはひとりひとりちがう。

 

どうしてあなたはここにいるの。

なんのため、ではないよ。

本当の気持ちはなんですか。それを、ささげる。

 

結婚するという召命をいただいた人も、あの人美人だからって結婚するんじゃない。一緒にいて幸せだから、人生の時間ささげるんだモン。

たくさんの修道者、あほです。召し出しは、たくさん愛するためです。

「ひとりひとり」、愛に従って、イエスとのパーソナルな出会いがあります。

「なまのわたし」がおこたえするのです。

おもしろい話をしましょう。教会の神父さんがローマンカラーをつけて前にいたら、おじいちゃんが話しかけてきた。「神父さんですか?」「そうです」「こども何人いますか?」「一万人です」おじいちゃんは「うわっ」(一同、大笑い)。それだけ教会の信者さん愛していたんだね。

 

しかたがないから従うのはそれ、愛じゃありません!しかた、あるよ(また笑う)。

 

福音書としてマルコの10章17節以下が与えられます。金持ちの男の箇所です。

この人は、自分のことばっかり考えている。自分が救われたい。だけど、みんなのために自分自身をささげ、分かち合ってほしい。お金だけじゃないよ、健康や才能があるということもふくまれる。

だけどイエスの持ち物うっぱらって施しな。その言葉に、悲しみながら去っていっちゃった。

この人名前のこってないね?

 

でもルカの19章、ザアカイは名前が残った。イエスからのプロポーズがあったとき、急いで降りてきてよろこんでイエスを迎える。おおよろこびで。

神学的にではなく、なまのわたしとして、だれの前で「わたし、しあわせ」と言えるの?

 

***

 

十字架のうえで腕をひろげられるイエス様をみます。すべてを与えつくした姿です。お恵み、愛、平安がわたしの心にふんだんに注がれているのを感じます。それが満ち、あふれて、わたし自身だけではなく、人々への奉仕、神さまへのいのちの時間の奉献となって、向かっていくのではないかな。そう思いました。

エフェソの信徒への手紙のつづきには、「キリストの満ちあふれる豊かさ」という言葉が出てきます。これを体験させていただけたなぁと感じます。

 

ミサの説教では、「自分のために召し出しを受けるのではありません。人々のために働き、自分をささげるためにあるのです」と語られました。京都でバーをしている牧師さんに「ミッション・自分じゃあきまへん」といわれたのがよみがえります。

 

午後はゆっくり黙想です。

エフェソの「神から招かれる」というのは、なにかの働きに招かれる、ということ以前に、生きるということだ。人生の日々をあたえられるということなんじゃないか。自分のからだの温かさを感じます。心臓はもはやイエスさまのもので、聖体拝領をしたわたしの血はもはやイエスさまのものなのだ。

この聖書箇所の「一切高ぶることなく、柔和で、寛容に…」という勧めが課題になります。おしゃもじを手渡ししなかったら怒ったシスターとの一件もそうだけれど、彼女は自分を尊重し(高めて)ほしかったから怒ったんじゃないかな。わたしのうちにもそういうこころの働きがあって、「ミッション・自分」にしてしまう誘惑をもたらしている。

 

わたしたちを誘惑に陥らせないでください。

 

ほかでもないこのわたしに与えられたお恵みってなんだろう。

死を願ったことがあることによって、神のいのちがわたしの中で生きていることを、実感していること。

こないだ牧師さんたちからいわれたけど、ひとから話を聴くときに、こころに納めて受け止める賜物をいただいているのかもな。

マルコ10章17節以下の金持ちの男の箇所に黙想は移っていきます。

この人、必死で自分の救いを求めているし、イエスを善い先生っていってもちあげて気に入ってもらおうとしているな。

あせってこころが炎症を起こしているかもしれない。そこにマイルド~なイエスのまなざしが入ってくる。

自分の救いではなく、ひとの救いのために、才能、人生の時間、若さなどを分かち合う、ささげる者になるんダ。

自分が自分の教会の人に気に入られるために、なにかを言ったり、奉仕?したりするなら、それは本末転倒ということだ。

 

神父さんはいたずらっぽく、「シスターたち、歳で墓、近いヨ。Megさんわかいから希望あるネ」といいます。そして後から味の出てくるひとことを言ってくださいました。「自分の中に閉じこもる?ダメです」

言われたときはわたしはひきこもりではないよと思ったのですが、お恵みを自分の物だけにして、分かち合わないなら、それは神さまのお望みではないという意味として、あとから受け取りました。

 

聖体顕示がありましたが、開始10分くらいでおなかの虫が鳴き始め、それはそれはうるさく、静まり返ったお聖堂に響き渡るのが恥ずかしかったので、うやうやしく(?)礼をして、辞去しました。

 

晩ごはんは、お魚でした。

マインドにいいんだよなぁ。