修道院7日目
ぎりぎりまで寝ていました。朝食に向かいます。
朝食はいつものとおりレタス、ヨーグルト、バナナ、パンに、6Pカマンベールチーズでした。きょうは眠い。朝食の後も部屋でゆっくりしてから、講話に行きます。
きょうはコリントの信徒への手紙Ⅰの9章16節から23節、
マルコによる福音書6章30節から44節 が与えられました。
神父さんはかつてたばこを吸っていて、やめようと思ったことがあったそうです。
たばこをやめようと「考えて」いたときはやめられなかったけれど、心に決めたらやめられたので、
頭ではなく心が大切とおっしゃいます。
できない、できないと「考える」のではなく、イエスと一緒に心に決める。
休んでいるときもイエスさまと共にいるんだヨ。
きょうの福音書には、イエスさまの一行が、あまりにも人々に囲まれて大人気で忙しかったので、すこし休もう。と出かけていくも、人々が追いかけてきて待っているというシーンが出てきます。彼らはイエスさまに会いたい。神の子だから?Boooo!頭で考えるんじゃないんだヨ。その物語の中、メンバーになる。イエスさまは温かかったんだ。ひとりひとりを大切にしていたんだ。ひとりひとり、だよ。みんな、じゃない。
奉献生活も、毎日出会う人と温かく挨拶して、深く出会うためにある。
イエスさまはふつうの人として暮らしていたんだよ。大工さん。マリアの子ども。でも、温かかったから、もういっぺん会いたいと思わせた。自分を通して、イエスさまが働かれ、ほんとうのなぐさめになるように努力しましょう。イエスのうちに愛を見、自分のためではなく周りの人たちのしあわせのためにささげなさい。温かい心でひとりひとりと出会っていかなければ、福音宣教はないんだヨ!まわりのひとたちを宣教の対象として、もののように扱わないで!!
自分の殻から抜け出して、周りの人たちの所へ行きなさい。周りの人とは、世界です。
心からなにかが生まれてこなければなんにもないんだよ。
いろんな問題を抱えていることは問題ではありません。悩みの「とりこ」になってしまうことが問題です。
“まじわりの専門家”になりましょう。
知らないうちに、人とどうやって接しているのかに心は現れます。
死と復活のイエスはわたしの心、わたしのいのちなのです。パウロはこのことを一晩で悟ったのではなく、働いて生活しながら祈り、おもいめぐらしていたんだヨ!
人間、歴史、出来事をとおして、今朝、ここにいるんです!
イエスの愛に召されてここにいて、その愛にこたえるためにどんな態度、心があって、イエスに似たものとなるのか。これです!
お昼ごはんにはメインディッシュとしてしゅうまいが出ました。となりの、ベールをかぶったシスターの、からしと醤油の使い方が絶妙です。
五千人の給食の箇所は、いろんな解釈がされてきましたが、それはいったんわきにおいて、思いめぐらします。
あるだけのわずかなパンを5000分の1にちぎったら、到底満足はできないだろうなぁ
これしかない、ここまでしか提供できない っていう限界を超えて、出し惜しみをなさらない方がイエスさまなんだなぁ。惜しまずあたたかく接し、養ってくださる方だ。
5000人いても、ひとりひとりをご覧になる。5000分のひとりではない。
弟子をとおして働いてもくださる。わたしを通しても。
何百デナリのパン買ってくる…?っていう計画よりも素晴らしいお恵みがある。わたしが願うよりもよいものをお与えになる。
コリントの信徒への手紙では、パウロは「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです」って言ってる。なんて美しいんだろう。パウロはイエスの愛に出会って、心がその愛の泉として恵みがあふれ、あふれたから人に向かって行って、自然に福音を宣べ伝えることになったんじゃないかな。
他の人々に宣教しておきながら、自分が失格者にならないようにという言葉も9章の最後に出てくる…耳が痛いなぁ。泳げないライフセーバーはライフセーバーではないと言われている気がする。パウロは自分を「だれに対しても自由な者」と言う。たとえ福音を告げ知らせたことによって、牢獄につながれることになろうとも。彼は人間を恐れないのだ。わたしも自分の教会に頭を下げる不自由な者ではなく、神に頭を下げる者でいなければならない。
修道院での生活も平穏無事とはいえず、怒られて泣いたりしている。
動揺することもある。
でもわたしが苦しい時は、イエスがわたしのうちで苦しんでくださっている。
寝るときは、わたしはみ前で休むんだ。
そのことが実感できているから、わたしはひとりではない。
夕食は塩鮭に味噌汁、二種類のサラダ、ごはん、キウイでした。
何日か前に読んだヤイロの娘のところをまた読んでいます。
「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」の活字が突如、文字としてではなく、悲痛な声として聞こえてきます。死んだんじゃないよって言うイエスをあざ笑う気持ちも理解できます。泣いているときはなにもかもが悲しく見えて、希望の声が入ってこなくて、ばかばかしく見えてしまうことがあるからです。
夕食後の食器を片付けにシスターたちと四人で食堂の作業をしてから、すぐそばの聖堂に入り、ロザリオを祈ります。すると、祈りの言葉を背景にして、わたしの前にイメージが繰り広げられます。先日亡くなった父と、中学生の時に亡くなった好きな人が、天国行きの駅の改札で満面の笑みでわたしを待っていました。わたしは白い式服を着て、かれらの方へ向かって行きます。泣けてきます。かれらの横にはまだまだスペースがいっぱいあります。わたしが本当に天に召されるのはいつかわからないけど、まだ24歳だからみこころならば神さまはわたしの人生にもっとお時間をくださるでしょう。そのスペースには、先に見送った人々が並んで、わたしを満面の笑みで迎えてくれるのだろうな。そう思いめぐらしながら、部屋に戻って眠りにつきました。