🌸Megのゆるっとクリスチャンライフ🌸

教会のメッセージやクリスチャングッズのレポートをお伝えするブログです♥️

修道院での修行、2日目

修道院2日目

 

昨晩はにぎるための十字架と一緒に寝たようです。朝になるとほっかほかの十字架がベッドにありました。

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ほっかほかの十字架(英国で購入)

そこで思い出すのは昨日、シスターと呼ばれたこと。修道院一日目は自分で縫製した修道服風のワンピースを着ていましたが、これを着ていると修道院だとほぼ百発百中シスターって呼ばれます。(笑)

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シスターですか?

朝ご飯はレタスに胡麻ドレッシングをかけたもの、りんご(果物ナイフに慣れておらず危なかった)、パンにオリーブオイルをびしゃびしゃかけたもの、もちもちの修道院製のヨーグルト、6Pチーズ、コーヒーでした。

シスターと一緒にお皿洗いをして、朝の講話までしばし祈ります。

昨晩は神父さんからイエス様との親しさを求めるようにとの言葉がありました。

なのでこう繰り返しました。

「イエス様、あなたご自身をわたしにあらわしてください。」

すると、「わたしは遠くにいるのではなく、あなたの心の中にいる」というお示しがありました。

ロザリオは好きですが、神父さんのいう霊における祈りとは、必ずしも定型のお祈りにおさまりきるものではないのだろうなぁと思いました。わたしにとっては、これだけ祈ったという形式主義にならないよう、注意が必要です。でも、たとえばあと10分祈ろうって時には2連分、とか整理しやすいのはいいところだと思います。

 

講話がおこなわれました。

神父さんは、ゆっくり30分、1時間祈りの時間を見つけるようにとおっしゃいます。そして祈りなさいと。「父なる神よ、この30分はあなたにささげます。この時間があなたへの賛美と奉仕になりますように」。

そして読んだ聖書箇所はマルコ10:46~52の盲人バルティマイの箇所です。

 

一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が𠮟りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

 

神父さんはおっしゃいます。(光景を)「えがくヨ」。想像しなさいというのです。パレスチナなんて見たことないから想像できないって人は、新宿のホームレスにバルティマイを見なさいと。

盲人バルティマイは見えなくてもイエスと知り、わかり、イエスを見ました。周りの人はしかりつけますが、憐れんでくださいと叫びます。特筆すべきはここでわたしの視力を回復させてくださいと言わないことです。憐れんでください。この叫びはイエスの心の中に届きました。イエスはこの人がほしがっているものをそのまま感じ取ったのです。そして問われます。「何をしてほしいのか。」

神父さんはいいます。何のために修道院に来たの?寝るためじゃないでしょう。イエスに近づくためにここに来ているんだヨ。今、彼と話し合っているんだモン。この期間、望んでいることはなんですか?
祈りは考えることでも議論でもこちらからばばばばと何かを申し上げることでもない。わたしの友、すべてであるイエスとしっかり座って語り合うことであると。なにをわたし、ほしいの?

あ り の ま ま。 今。これがキーワードでした。二年前にいい祈りをしたとか、70年前にイエズス会に入ったとか、それは関係ない。今、今、今なのです。そして周りの人は関係ない。盲人バルティマイがイエスに呼ばれると、もはや周りの人はしかりつけません。この物語に自分をあてはめてみると、自分の中にイエスを呼ぶこころの動きをじゃまするはたらきがあることがわかります。こんなの友達につたえられないな。家族に祈っているところを見られるとなんかきまりがわるいな。など。それがしかりつける声です。

祈りは、イエスと一緒にありのままで語り合うこと。あなたは何をイエスの力によって変えていただきたいですか?と問われました。変わる覚悟も必要なのだと、わかりました。

神父さんは病院に行って手術をしたとき、神父だというとドクターがカトリック信徒だったエピソードをひいて、「ありのままに人間が語り合うことで助け合うことができる」とおっしゃいました。自分を開いていくことで、イエスさまもご自身をあらわしてくださるのでしょう。

詩編37:23~24には、一歩一歩という言葉が出てきます。今が一歩なのだ。ちょっとゆっくり座って、あるいは横になってイエスと語り合う。イエスは向こう、わたしはここ、で頭の中でわーーと何かを申し上げるのは、祈りではない。一歩一歩。今。ありのまま。ジャンプもしないでバックもしない。過去でもなく、未来でもなく、今、イエスと人格的に話す。わたしはわたしなんだモン。修道会がどことか関係ない。(参加者13人のうち9人がシスター。)

まず自分自身をよく見ないなら、見えていてもまっくらだ。と神父さんはいいました。グサッ。

そのあとミサがありました。説教で神父さんは「ありのまま」を繰り返しました。そのうえで、ありのままを出してもイエス様はびっくりしないんだヨ。とにっこり。

第一朗読にはコリントⅡの最初を選びました。

 

わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。

 

パウロはそれまで神様のために律法を守り正義を求めていましたが、イエスと神秘体験をとおして出会い、慈愛にみちた神様のすがたにめざめたのです。神父さんはきびしい口調に変わってこういいます。「神からの慰め、平安をまず自分が受けることなしに、自分が人を慰めたり、励ますことはできないんだヨ。」

そして、バルティマイの箇所が朗読されました。

 

ミサが終わっても聖堂にすわっていると、「何をしてほしいのか?」とイエス様が隣にすわってくれるイメージが浮かんできました。満たされておだやかな気持ちの私は、あえてなにかを願うともなく、「何もいらないよ。あなたとこうしていられれば。」と答えていました。あら~新婚さんみたい~というセルフツッコミつきです。(笑)

こんな特別なお恵みに感謝して、ロザリオをゆっくりゆっくり、一連お祈りします。

祈りの先生であるイエス様は、わたしの主の祈りを、うん、うんと優しく横で聞いてくださいました。

そしてアヴェ・マリアの祈りは、気の強そうな感じのマリア様のご像の前でおささげしました。うにょうにょして気持ち悪いへびを素足でぐしゃ!と踏み、強いまなざしで聖堂の逆側をみています。そこには聖ヨセフが幼子イエスを抱えているご像があります。

 

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さぁ、充実した午前中を過ごし、あっという間にお昼ごはんです。お昼は、冷やし中華、ゆでたコーン、こまつなのおひたしのピーナッツソースあえです。

そのあとはたっぷりお祈りする時間があり、16時からは神父さんとの個人面接です。面接は同伴、といいます。

以前この修道院で、マインドフルネス瞑想を習ったので、瞑想の間という畳の部屋に行って座布をしき、瞑想の姿勢をとりました。3分間、自分の体に生じている感覚を観察します。頭の中で今、ここにないこと(=雑念、マインドワンダリング)を考えたら、体の感覚に戻るようにしました。すると、ずしっ。自分がここに、生きて存在している感じがしました。ここに体があって存在している「このわたし」は、イエス様の宝物だから生かされているんだ。って示されました。静かな喜びにみち、部屋に帰ってレースのベールをかぶります。ベールをかぶるのは、宝物のラッピングみたい。そう思いました。

さて、面接の時間になりました。こんな体験やあんな体験をしました、と自慢したくなるわたしをよそに、饒舌な神父さんがおっしゃった言葉にニンマリ。

 

木に登ったザアカイに、イエス様は「おりてきなさい、あなたの家に泊まりたいんだ」と言うんだヨ。盲人バルティマイもザアカイも聖書に名前が残っているんだヨ。でも金持ちの青年はどうだった?悲しみながら行っちゃったから、名前のこってないネ。あなたの名前、残るようにしなきゃねぇ~。来て、よかったネ。

 

17時からは、聖体顕示です。カトリックではないので慣れていないのですが、イエスさまのご臨在を感じながら祈る時間ですね。

エス様は殺されて、分けられて聖体になって、食べられている。なかなかグロいなぁ…と考えていましたが、そうすることによってクリスチャンの体のなかで世界中に分けられたともしびみたいに、拡がって輝いている。そんなことを黙想しました。

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ご聖体について感じたこと

 

“十字架のイエスは、わたしのすべてを背負ってくれている。”

“釘付けにされたイエスは、わたしたちを救うということから、動けない”

などと感じました。

40分くらい座っている途中で、先日亡くなった実父の最期の苦しそうな顔が浮かんできてつらくなりました。からだが冷めていくような感じがしました。でも目の前のご聖体は過去でもなく未来でもなく、いま、そこにあります。「安心しなさい。わたしだ。」と語りかけられました。

 

晩ごはんは白身魚の丸揚げ(クリスピー‼)、千切りキャベツとトマトのサラダ、おいなりさん(修道院でもおいなりさんでいいのかな?)あぶらあげとかぼちゃとワンタンの味噌汁、キウイでした。

 

エス様が隣に座ってくださる感覚、すばらしいものだったのでお部屋でも観想しようと思ってお部屋に帰りました。ベッドの隣に座ってください、イエス様。

おやすみなさい。