こんにちは! 主の平安がありますように。
きょうは、今週のメッセージをお届けします。
聖公会やカトリックで共通して使われている「A年」の聖書日課。B,Cもあって三年周期でぐるぐるしています。
今週は、クリスマスにイエス様が生まれたことを記念したあと、彼が世の中に現れられたことを記念する季節「顕現節」の日曜日。顕現後第五主日です。
そこで読まれた聖書のうち、メッセージでとりあげるのは、
「使徒書」の、コリントの信徒への手紙 一 2章1節~11節と、
コリントの信徒への手紙一 2章1節~11節
兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、”霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、
「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」(※イザヤ書64章、65章のアレンジらしい)
と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が”霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。”霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。
マタイによる福音書5章13節~20節
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。
コリントの信徒への手紙は、パウロが書いた手紙です。パウロはコリントに行く前に、どこに行ったでしょう。大切な古典のあるアテネへ行ったのです。パウロはいっぱい勉強をした博識な人であったともいわれていますから、アテネではイエス様を宣べ伝えようとしたときに、難しいいろんなことを伝えたのかもしれません。
でも、だれにもその思いが届かない。言葉が人の心を打たない。クリスチャンになってくれない。
憔悴しきって、疲れ果ててパウロはコリントに来ます。パウロがそこで人々に語ったしかたは、アテネでの話し方とは違いました。
彼が話したのはただ、十字架のイエス様のことだったのです。
わたしたちひとりひとりは、神様の子、救い主であるイエス様が死んでくださったほどに、神様に大切にされている者なんだ! このいのちがたいせつなんだ!(胸に手をあてて)
生きているだけで神様にものすごく喜ばれているんだ!
十字架につけられたイエス様が、パウロ自身を救ってくれた。心の底から出てくる言葉に、人々は動かされました。
結局、たくさん勉強して、それをレクチャーするよりも、心の底から出てくることばが、ひとの心には届くのだろう…
…牧師さんは、あの偉大なパウロさえ、言葉がとどかないことに悩んで憔悴しきったことがあるということが聖書に書かれていることに、救われる思いだと言っていました。
そして、福音書はものすごく有名な、「地の塩、世の光」の箇所です。
イエス様は人々に、地の塩に「なりなさい」、世の光に「なりなさい」、とは言っていません。神様に愛されて生きているわたしたちひとりひとりが、もう地の塩、世の光なのです。
だけど、人は「わたしなんて」「愛されている?そんなことない」と、自分の塩気をなくしてしまうのが得意なのです。
でも、努力してあなたの光を輝かせなさいとイエス様は言っているわけではないのです。
わたしたちの中には、神様がひとりひとりをほんとうに大事に思っている、かけがえのない子どもだと思っているという愛の光が宿っています。
それを升の下において隠してしまう、塩気をなくしてしまう…「わたしなんて」と言うのではなく
神様がせっかく与えてくれた光を、「ありがとう」とうけとめて生きていきたいです。
パウロは、別の箇所でクリスチャンたちに「せめて、あなたがただけは平和に暮らしてください」ということを言っています。
聖書を読んでいるわたしたちはせめて、自分は大切な存在なのだということに気づいて生きていきたい。そして、周りの人もとっても大切な存在なのだということを知っている者として、大切にしあって生きていくとき、その光は広がっていくと思います。
With Love and Prayer,
Meg