主の平和がありますように。
ブログを読んでくださっているみなさん、こんにちは。
突然ですが、皆さんはご自分の気持ちのアップダウン、鬱々とした気持ちや空回りしてしまうご経験をお持ちでしょうか?ある方は、どのように対処されていますでしょうか。
きょうは、双極I型障害(入院が必要になるほど、気分のアップダウンを繰り返す病気)を持っていつつ、神様を信じて歩んでいる私が、双極症「でありながら」ではなく、双極症「として、かつ」命に溢れて神様を信じて歩む上での個人的な信仰生活上の生き方の記録を残したいと思います。
私は、神様とひとつになろうとすることを目指す神秘家、神秘主義者の教えを聞いた事によって、(それ自体は大変示唆に富んだものですが、勘違いしてしまい?)それまで持っていた気分のアップダウンがガーッと上がり切り、重い躁状態になり入院を経験しました。その際双極症の診断を受け、その後は病気とともに生きています。
お薬も欠かせませんし、お薬を飲んでいても重いうつ状態や、希死念慮や、入院するほどでは無いけれども、周りを困らせる躁状態(テンションが高く、イライラしたり、しゃべりすぎたり、大それた行動に出たり)が出てくることがあります。昨年は生活苦とうつ状態で自死未遂をし、再度の入院を経験致しました。
病、それから を信仰者として生きるにあたり、私個人は、どう生きているのかを書き留めたいと思いました。
では、おつきあいください。
〇迷惑をかけるということ
躁状態のときも、うつが強い時も、私は困ったことをしたり、周りが驚くような言動をしたりして、友達の中には私のそばを去っていった人もいますし、信頼をなくした出来事もありました。
大きなほころびでなかったとしても、私を気分屋だと思い、信用出来ないと思っている人もおそらくいると思います。
入院生活から帰ってきた時は、ほうぼうの人たちに、迷惑をかけたことをお詫びする日々でした。
神様に対しても、誇大妄想で神様のことを誤解したことにも、うつ状態で死にたくなってしまったことも、懺悔する日々でした。
ただ、そんな中で私たち人間に注がれる神様のまなざしを黙想しながら気付かされたことがありました。
それは、懺悔ももちろんしなければならないけれども、大切なことは、私の病を知り、背負い、私の過ちをゆるしてくださるイエス様に信頼することでもあり、そのような態度が信仰者には求められているということです。
〇罪とは
罪とは、きっと、何かをしでかすことももちろんいいます。そして、神様を悲しませる罪はもう少し別にもあって、それは、神様が他でもないこの私を造り、生かし、心から愛してくださっていることを、忘れてしまうことなのではないかと考えたのです。
神様は、もしかしたら私たちへの愛が一方通行になって、寂しい思いをされているかもしれないと思う時もあります。
〇愛
神様の無条件の愛であるアガペーをいただいている私たち人間ですが、私には身体があり、心があり、色々な制約がある中で、なんとか隣人、神様を愛したいと願う信仰生活です。
神様に対する愛に、人間同士の愛の例を使うのは、とても範囲を狭めてしまうようでいながらも、私には人間としての身体があるので、ホルモン別の愛の在り方をみてみました。
・ドーパミン的愛
ドーパミンというホルモンが、双極症の場合悪さをしているらしいです。
ドーパミン的愛というものもありますが、それは恋愛初期のようなドキドキ感、ほかのことは考えられない感じ、ときめき、相手の事ばかり考えてしまう、と表現されます。
突っ走る愛、不安定な愛。
とても強烈な感じなのですが、長続きはしません。
・オキシトシン的愛
オキシトシン的愛は、一緒にいて落ち着く、自分が自然体でいられて、沈黙が苦ではない。
落ち着いた穏やかな愛と表現されます。
長く信仰生活を続けていく上で、神様を信頼して生きていくなら、オキシトシン的信仰が良さそうです。
〇具体的にどんな信仰生活を送っているか
私個人の話で恐縮ですが、目標指向性の思考(〇〇になりたい、なってやる、なれる)という思いがずっとあり、それは聖職者になるということでした。その思いをこじらせてしまい、病気になったと言っても過言ではありません。りきみすぎていたのでしょう。入院先のナースには、人生が変わる時、打ち砕かれる時、新しいスタートを切り直す時になる病気とも言われました。
召命だと思っていたものが、症状だった、言葉がスラスラ出てくるし嬉しいから、聖霊に満たされていると思ったら、症状だったという失望感は大きく、それからはオキシトシン的信仰、落ち着いた長続きする愛をどう日常生活をキープしていく中で保っていくかを考えるようになりました。
具体的には、私は安心できる、安らうことができる、神様に信頼することが出来る、アンカー(錨)になる信心業ー私の場合はロザリオの祈りーを毎日の習慣としています。
手先を使ってある程度の時間をかけて祈るのが、しょうに合っているみたいです。
これができる時とやりにくい時で、自分の状態を知ることにもなっていますし、心を暴走させない為に、毎日同じことをするのは案外いいみたいだというのが体感であります。
よく、野球を見に行くのですが、バッターはそれぞれのルーティン(バッティングする前の独特の動作)を決めて、どんなに観衆が声を出していても、どんなにプレッシャーがかかっていても、自分を保ち、最善のプレーができるようにその動作をします。イチローだと、そでをピッとひっぱる。
私にとってはそれが定型の信心業、ロザリオの祈りなわけです。
もうひとつ、忘れてはいけないのが、医療の力を否定しないということです。
お薬を飲まずに治したいという人が、メンタルヘルスとキリスト教の講演会で、当時イグナチオ教会の主任司祭であられた英(はなふさ)神父にそう訴えると、かれは「薬も被造物。神様のお恵みです」とお答えになりました。
また、修道院の黙想を担当されるおじいちゃま神父様は、たくさんのお薬を、十字架の形に並べて祈ってから飲んでいました。
神様が人間に与えた知識と知恵を使って作られた薬、それを処方する医師とのつきあいは、きちんと守るようにしています。
〇いやしについて
神癒という、神様の奇跡で病気が治ってしまう、それを祈り求めるという立場があります。そこに立って祈るクリスチャンの方にとっては、煮え切らない立場に思えるかもしれませんが、
私は、病気でいて、かつ、いのちに溢れているという生き方がキリスト者には可能であると信じています。
いま、病気の自分を否定することなく、病気を異物として追い出すのでもなく、それを持ちながら、神様を信じて生きているということは、確かに可能です。
キリスト教は、ご利益信仰ではなくもっと味わい深い生き方を教えてくれていると感じるからです。
パウロの書簡の中に、死にかかっているようで、生きており
という言葉があります。
ところが新約聖書学者の廣石望先生は、ここの訳は死にかかっており、かつ 生きている とも読めるとおっしゃいました。
私は、病気をなくしてと祈るのではなく、病気であり、かつ、神様を信じていきいきと生きていますと宣言できることの強さを、キリスト教に見たいと思っています。
イエス様のいやしは、テラペウオー(セラピーの語源)が使われており、それは手当てとも訳されます。私たちが生きているということそのものが、肯定され、神様がこの私を生かす手の働きにふれる。自分の持っている何かを追い出そうとするのではなく、そのまま心と体と魂に優しく手を当てていただけるような、あたたかな信仰生活を送りたいと願います。
〇病気だから
病気だからあれもこれもできないー
たしかに、制約はあるのですが、信仰生活においては、弱さを誇ります。
病気だから、そこに神様が入るスペースができる。
病気だから、自分ができないぶん、より一層神様に信頼する。
キリストの苦しみの欠けたところ(!)を私も満たす。
辛いうつの時、イエス様の苦しみを思う。
イエス様が私に十字架の端っこを持たせてくださっている。
身を低くして、やり過ごす
その時間は無駄ではなく、十字架のイエス様がいちばんそばにいる時。
躁状態のとき、周りからは元気になったと思われたり、自分でも調子がいいと思ったり。
でもそれは症状だというやるせなさ。
沢山喋ったりするけれど、どこか虚しい時があるのも、神様だけはご存知です。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
メンタル持ちの私たちを、神様が祝福してくださいますように。
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