🌸Megのゆるっとクリスチャンライフ🌸

教会のメッセージやクリスチャングッズのレポートをお伝えするブログです♥️

同僚、ブチキレて帰る 私、聖書の話をひらめく

Megです。こんにちは!

更新が久しぶりになりました。

 

実は私、今年大学を卒業したけれど、いわゆる「就活」はしなかったんですね。不思議がられる。だいじょうぶ?みたいなことも言われる。

固定の人間関係がツライのもあるし、その後神学校に進学したいので、勉強したり修行したりする自由がほしくて、会社の定職に就くのではなく、好きな時に時給で働く道を選択しました。

全然「だいじょうぶ?」って心配されるようなかわいそうな感じじゃない。

なんとか食っていけてはいるし、10日間休みをとって修道院で修行したりとか(次に記事で書きますね💓)宮古島の海を延々眺めに行ったりとかできる。

会社で月火水木金朝から晩まで働くというライフスタイルではできなかったことができている。

大学院に永遠にいるんじゃないかっていう先輩(笑)からは、「そもそも世界の歴史の中で会社という物自体がわりと最近できたのに、18-22歳の間大学にいて、新卒で会社に就職するというのが”ふつう”なのがおかしい」という頼もしいコトバを頂きました。

と、非正規雇用(ですよね、聞こえは悪いけど)で働いていることへのイイワケ的なものはここまでにして。

 

こないだ今やっている事務の仕事の同僚の若い女性がブチキレて帰るという事件が発生したんですね。

仕事先の都合で、9時5時だった仕事が時短になりまして。9時13時半になったわけです。

でもその同僚を含む私たちの部署の仕事が厄介なやつだったので時短の対象外になりました。

結局9時5時になりました。

ところが問題だったのは「仕事先の都合」で時短になったので、先に帰った人たちに派遣会社から9時5時ぶんのお給料が補償されたこと。

お分かりいただけたでしょうか?(ちょっと丁寧なホラー番組みたいになった)

 

アンフェアでしょ?

みっちり5時まで働いた人と、昼過ぎで帰れた人が同じお給料。

私は力になれればいいなーと思って最後まで働きましたが、聞かなきゃよかった情報だなーってなりました。

同僚は「ありえん」と言ってめちゃめちゃ怒って帰りました。

帰りにもやもやしながら「これ、まさにあれやん」(←中身のない独り言だな~)

 

とひらめいた聖書の話が、これ。

 

マタイ20章1節からの「ぶどう園の労働者」のたとえ。

 

天の国、神様のおとりしきりは、次のようにたとえられるとイエス様が前置きされたうえで、ぶどう園で働く労働者を雇いに行く主人の話をされます。

一日につき1デナリオン…一日のお給料の約束をして、朝っぱらに人を雇ってぶどう園に送ります。それから9時に行ったら、いた人に「ふさわしい賃金を払ってやろう」と言ってぶどう園に送ります。12時にも、3時にも、さらには夕方5時にも行ったら、5時にいた人は「だれも雇ってくれないのです」(´・ω・`)ショボーン

 

と言っていたので、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言います。

夕方になると、最後に来た人から始めて、全員に賃金1デナリオンが支払われたのです。最初に来た人たちはもっと多くもらえるだろうと思っていたのに同じだった。

最初に雇われた人たちは不平を言います。ずっと暑い中働いたわたしたちと一時間しか働かなかった「この連中」と同じ扱いにするなんて。と。”この連中”…キレてますね。

時給の労働の対価だったら、これはありえないことですよね。不平を言うのも当然です。そして私の同僚も、怒って帰ったのはこの人たちと同じような気持ちだったのではないかなと思っています。

 

聖書のこの物語の中で主人は、「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」とこたえます。

 

注釈書とか読んで書いてないので、正しいとか正しくないとかいうところはわかりません。でも私はこう思いました。

一デナリオンは、その人が一日生きていくためのいのちだ。

いのちを支えるお恵みだ。

その人を「あらしめる」神様の愛だ。

そしてそれは多く働ける人とか、役に立っている人とか、あるいはそうでない人だとか、いい人、悪い人ということにかかわりなく、今日のいのちは今日、その人に与えられている。

人はそういうことで区別するけれど、神様のお恵みは区別されないでふりそそいでいる。

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5章45節より)

 

エス様はなんでこの天の国のたとえを話されるときに労働と賃金のたとえで話されたんだろうなぁと、仕事帰りのスーパーの店内でなるべく安くておいしそうなものを買いながら考えました。

人はお金に執着しやすいし、お金がないと生きていけないし、お金ははっきりと数字であらわされるから、多い少ないがすぐわかる。神様のお恵みの話ってもっと精神的な、抽象的なものかと思っていたから、お金の話を使うのは、変わってるな、って思ったんです。

でもイエス様のたとえ話は挑戦的でもあり、聞く人がイメージしやすいように考えられているのかも。

この一デナリオンをお恵みと考えるなら、いのちを支える、それがないと生きていけないということ、そして多い少ないがはっきりわかるけど、この主人-神様は平等にみんなに与えた、というのがわかりやすいなとも思いました。

 

 

お恵みはがんばったからもらえるものじゃなくて

神様がひとりひとりを大切に思う気持ちから

ギフトとしてもらえるものだよね。

 

あしたも起きたら、「きょうも生かしてくれてありがとう。きょうも生きることを望まれているのですね。わたしの分に応じた役割を果たすようにつとめます」と言って仕事に行こうっと。

そう思ってお惣菜をおいしいおいしいと食べたのでした。

 

つたない話でしたがお付き合いいただきありがとうございました。